いたれりつくせり。

アニオタからジャニオタ。オタクのオタク。

「笑い」について(漫才と新喜劇とスタ誕と軽口男と市場三郎)

 あっという間に2月も中盤である。年始から1カ月半で9現場だから、数にしたら全然だな…なんて思っていたのに、年換算だと昨年を大幅に上回る72現場/年になってしまうことにはたと気がついて慌てて認識を改めた。「いうて現場にいっていない」というのは大きな思い違いであることを忘れてはならない。

 

 さて、今日は「笑い」について。

 

 1月28日、仕事中にちらりと見たYahoo!トップに、見慣れた「茂造」の顔を見て心臓がひゅっと縮まった。ニュースを読むと、内場さんと辻本さんが座長を勇退するのだという。

 座長は現在の6人体制から、2人をなくして4人となること。新たに座長候補として、リーダーを4人任命したこと。座長を勇退する2人は、ベテラン座員として引き続き新喜劇に出演すること。オリンピックの2020年、大阪万博の2022年に向けて、若手の育成に力をいれること。

 どこの世界もこうなんだな、と思った。「座長になる」という夢がありながらも、今回発表されたリーダーの候補に入っていない、中堅~ベテランと呼ばれるであろう座員たちの顔を思い浮かべる。「若手の育成」は、裏を返せば「中堅~ベテランの立場が危うくなる」ということに直接通じる。どこの世界もこうなのだ。こういうとき、私はどどうしても中堅~ベテランの方に肩入れしてしまって、新人の育成、なんて素直に喜べなくて、少し寂しい。

 とりあえず、辻本茂雄さんが座長をつとめる公演のチケットを手配した。

 

 新喜劇を見るときは、どの座員さんがどんな立ち位置にいて、どのぐらいのセリフがあるか、どういう芸が「お約束」で、今日はどういう風に変えているか、とかを考えながら見る。以前に一度ウケたネタを再度やったりするのを見ていると、「今後の定番になるかも」と考えたりして、そのプロセスに立ち会うのも楽しい。特定の座長に好かれている(育てられている)座員、オールマイティーな座員、など、人それぞれ様々であると気が付かされる。

 座長は脚本とキャスティングにも参加するので、座長ごとに彼らの「色」がある。ある程度の人数でステージをやる以上、座員にも座長にもそれぞれ「役割」があって、その役割にはやっぱり「上下」がある。何年も見ていると、人も入れ替わるし、役柄も入れ替わる。

 …と同時に、こんなにオタク的な目線で新喜劇見ているんだな…と驚かされるのだけど、それはさておき。

 

 ルミネtheよしもとなどに行ったことがある人はわかると思うが、こういったお笑いのステージは漫才と新喜劇の2部構成になっているものがほとんどである。この日も、上記の新喜劇の前に、漫才師さんが5組ほど出ていた。

 「関西ジャニーズJr.のお笑いスター誕生!」という神映画を2年半前に見てからというものの、芸人さんの物語であるとか、彼らが作るネタについては、ただ楽しむというよりも、なんだか考えながら見てしまうところがある。

 その日の劇場には子供が多かった。漫才で最初に大爆笑が起こったのが、「ハゲ」という言葉が出たときで、子供たちが、結構長いことひぃひぃ言いながら笑っていることに気が付いた。小さい頃、そういう「ハゲ」とか「デブ」とかじゃ笑えなかった自称・おしゃま女子の私としては、大人になっても何が面白いのかピンと来ずに、「まあ、こういうこどものためにうんこドリルがあるんだもんな…」と考えたりしていた。

 

 たぶん、笑いって今の時代、とてもとても危ういのだ。

 

 そのあともずっと漫才を見ていて痛感したことだった。笑いには、だいたい大仰なものまねとか、少し過激な動きとか、「あるある」ネタとか、ちょっとした汚い言葉・下ネタであったりとか、何かを無理やり型に当てはめるもの、何かを揶揄したもの、何かを面白がるものが極端に多い。この日の午後に「天下一の軽口男 笑いの神さん 米沢彦八」を見たときも、それを痛感した。実際の史実を基にした、「落語の生みの親」と言われる男の人生の話なのだけれど、彦八は「仕方物真似」といって大名方の物真似をして、一躍有名になったのだという。

 バラエティがもっと頂点を極めていた頃は、ひやっとするほど過激で、切れ味の鋭い笑いが求められていた。その頃に私が子供だったからというのもあるかもしれないけれど、そういったかたちの「お笑い」が、当時特段大きな問題になっていた記憶はない。

 今芸人になっている人、なりたい人って、いわゆるそういう過激な時期に生み出されたお笑いを見て育ち、その時代の中心人物であり、今は大物となった人たちに憧れている人が多いのだと思う。

 

 ただ、今のSNS一強時代と、昨今の「今までよかったものがいいとは限らない」土壌を踏まえると、これからの「笑い」って何が残るんだろう、と考えさせられる。ついこの間も、お客さんいじりをした結果、ツイッターで炎上した芸人さんの話を聞いた。ポリコレやセクシュアリティについて、なんとか、やっと、論議が始まるぐらいの土壌が日本にできてきたところで、いや、できてきたからこそ、現代社会における「お笑い」の肩身はどんどん狭くなっていっているんじゃないだろうか。

 現に、その片鱗はもう見えているのだと思う。この日の漫才では、ツッコミで相方を叩くときに、「これ、痛くないように叩いていますからね」という一言があった。私はそれに、結構驚いた。ファミリー連れが多いとはいえ、そこに配慮する時代になったんだな、と。

 

 本当に厳しく取り締まったら、みんながみんな、「炎上しない」「誰も傷つけない」「笑いしか生まない」凡庸なネタを作るようになったら、それこそ「お笑い」を生み出すのは前よりずっと難しくなるのではないか。そもそも、そんなもの本当にあるんだろうか。そこを追求し始めたら、「お笑い」というジャンルというか、エンターテイメント自体が、消えてしまうのではないだろうか。

 

 先述の「痛くないように叩いています」の午後。

 「天下一の軽口男 笑いの神さん 米沢彦八」の劇中で(よく「子供」いじりをされる)池乃めだかさん演じる男が平手で叩かれて、抵抗しながら舞台から消えていくシーンがあった。この時に、めだかさんの選んだ一言が、「虐待や!」だった。

 面白いか面白くないか、笑えるか笑えないか、正しいか正しいかじゃない。私は、ここでこの一言を出してこられる芸人さんの、アンテナの張り方、センス、感性、そして度胸を買っていてる。そういったものは、今後も「お笑い」というエンターテイメントのそばにあってほしい、と強く思う。

 

 今の「お笑い」のかたちを広め、定着させた米沢彦八の話に戻る。当時、「笑話」がお金になるなんて、誰も考えつかなかったのだという。芸があるならまだいい、「人の話を聞いて、金を払う奴なんているわけがない」という時代だった。ビジネスのきっかけって、往々にしてこういう誰もやろうとしなかった隙間だ。私は舞台や映画を見るたびに、「こういう隙間を探したいな」と思ってしまう。

 ではこの舞台が、ビジネスに基づくお笑いの発展の話かというと、全くそんなことはない。劇中の彦八は、「(夜逃げでどこにいるかわからない)幼馴染の里乃を思いっきり笑顔にするため」日々高座にあがり、全国にその名を轟かせようとするのだ。

 思い出したくない失敗があるのなら、笑話にして思いっきり笑ってしまえばいい、という台詞もあった。鹿野武左衛門という友人の一世一代の大舞台のために、彦八がネタとして選んだのは鹿野武左衛門の汚点ともいうべき失敗だった。そして、舞台の最後で里乃と再会するときに、彼は話の題材に幼いころの里乃の、面白いけれどトラウマ的な側面もあるエピソードを選ぶのである。

 「笑いで人を救いたい」彦八のまっすぐさのおかげで、劇中通して、比較的皆まっすぐで明るい。鹿野武左衛門島流しにあうときも、「彦八だったら、これを笑い話にしてくれる」と言い切るのだ。彦八は、とにかく士農工商の隔てなく、皆を笑わせることに注力する。

 最後のシーンで、一部終わりには「そこそこの笑顔で、暮らせればいいのかな」といっていた里乃が彦八の芸を見て、大きく口を開けて笑うのを見て涙が止まらなかった。一瞬幕が下りた隙に急いで鼻をかみながら、「みぃんな笑ってるよ」、という大好きな三郎さんを思い出した。

冷たくて切れ味が鋭いこともあるけれど、全てを包み込む愛と優しさ。これも、今後の「笑い」というエンターテイメントのそばに、きっと残り続けるのだろう。

 

 

 

 君を大好きだについても、滝沢歌舞伎についても書きたいので、今月は頑張ってブログ更新しようと思う。※と書いていたのだけれど、最近のバタバタで完全に心が折れてしまっている…。